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薭生(ひう)城跡

印刷ページ表示 更新日:2012年5月30日更新

薭生(ひう)城跡は、薭生山系の通称城山(標高258メートル)をいい、築城年代は明らかではありませんが、南北朝時代に最も活用されたものと思われます。当初、ひ生氏が居城したといわれるが、大永3年(1523年)上杉氏の将平子右馬允(たいらくうまのじょう)が居城したと伝えられています。その後、天正7年(1579年)上杉謙信没後の家督(かとく)争い(御館(おたて)の乱)の際、平子氏は、上杉三郎景虎方についたため、上杉景勝方に攻められ落城したといわれています。また、慶長4年(1599年)、会津に移った上杉家の求めに応じて越後に残った上杉家の遺民一揆(いみんいっき)の際に五智院(ごちいん)の僧、海龍(かいりゅう)が遺民3800人の首領となって立籠(たてこ)もったともいわれています。

この城跡は、十字型式の山城で、大手正面は西方に向かって三国街道を見下ろし、野辺山道をおさえ、信濃川の舟運の要所を押さえた場所です。

今も頂上付近には蔵屋敷、道場屋敷、中腹には水源山殿入沢、車落とし、中屋敷などの関連地名が多く、また、頂上より中腹にかけ乱穴といわれる穴が今も数ヵ所確認できます。

文化財指定日 1972年4月1日

三仏生から見たひ生城の全景の画像薭生城の全景

ひ生城に残された堀切の画像薭生城跡に残る堀切

ひ生城跡から見た小千谷市街と信濃川の画像頂上から小千谷市街を望む

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